Makoto
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奈良時代は奈良の平城京に都があった710~794年までの時代を指します。
藤原氏と貴族が互いに権力争いをして、隆盛と失脚を繰り返した激動の時代です。
藤原氏と貴族で実権を争った激動の時代
藤原不比等の時代
中臣鎌足の子で藤原姓を貰った藤原不比等を中心とした藤原氏は、天皇家と身内を結婚させることで確固たる地位を築きます。
娘・宮子を文武天皇に嫁がせ、文武天皇と宮子の間に聖武天皇が生まれ、聖武天皇に娘・光明氏を嫁がせるなどして、藤原氏は天皇家の外戚となります。
これは奇しくも父・中臣鎌足が打倒した蘇我氏のような立ち回りですね。こうして藤原氏は朝廷の権力を掌握していきます。
長屋王の時代
720年に藤原不比等が亡くなると、天武天皇の孫・長屋王が実権を握ります。
藤原不比等の子の四兄弟は妹・光明氏を聖武天皇に嫁がせようとするも、長屋王は皇族でない藤原氏が皇后になるのに反対します。
この頃は天皇が崩御すると妻が即位するなんてこともあったので、平民の藤原氏が天皇になってしまう可能性を嫌ったんですね。
これにより長屋王と藤原氏は対立していました。
藤原四兄弟は目障りな長屋王を排除するため、729年に濡れ衣を着せて襲い掛かり、自殺に追い込んでしまいます。
藤原四兄弟の時代
藤原四兄弟は聖武天皇に嫁いでいた妹を皇后にすることで政治の実権を握ります。
しかし四人はほどなく天然痘で全員死んでしまい、中心人物を失った藤原氏は政権中枢からやや遠ざかることになります。
橘諸兄の時代
次に実権を握ったのは光明皇后の異父兄弟である橘諸兄です。
藤原氏とは血縁ではありませんが親戚にあたります。
諸兄は遣唐使にて唐の制度を学んだ吉備真備を重用して政治を行いました。
これに藤原広嗣が反発しましたが、九州の太宰府に左遷されてしまいます。
それから広嗣は兵を集めて740年に藤原広嗣の乱を起こすも、反乱は鎮圧されて死刑となります。
藤原仲麻呂(恵美押勝)の時代
光明皇后の後ろ盾の下で藤原仲麻呂が順当に力を付けていきます。
聖武天皇が病気で倒れて娘・孝謙天皇が即位すると、孝謙天皇の信任が厚かった仲麻呂は昇進して政権を掌握し、勢力図は塗り替わり橘諸兄は追いやられました。
757年に橘諸兄の子・奈良麻呂がクーデターを企てるも、事前に発覚して処罰されます。
藤原仲麻呂は758年に孝謙天皇を譲位させて孝謙上皇とし、自身と親しい淳仁天皇を即位させました。
そして藤原仲麻呂は天皇から恵美押勝の名を賜ります。
761年に孝謙上皇が病に伏せると、僧侶・道鏡が看病をしました。
それを切っ掛けにに孝謙上皇は銅鏡に入れ込むようになり、それを諫めた押勝との関係が怪しくなっていきます。
道鏡の時代
押勝は道鏡を排除すべくクーデターを企てるもは失敗、押勝は殺されてしまいます。
淳仁天皇はクーデターには加わりませんでしたが、後ろ盾を失ったことで失脚して島流しにされてしまいます。
道鏡は孝謙上皇を称徳天皇としてもう一度天皇に即位させ、自身は法王となって独裁政治を行いました。
銅鏡の身内が権力中枢に入り込み、仏教関連の政策に力を入れ寺社勢力の権力が強くなります。
藤原百川の時代
770年に称徳天皇が没すると、後ろ盾を失った道鏡は失脚して島流しにされました。
次の実権を握ったのは藤原百川です。
天智天皇の孫・光仁天皇を立て、荒れた朝廷の立て直しをしました。
財政の健全化と政治腐敗の一掃を図り、その方針は次代の桓武天皇に引き継がれます。
桓武天皇の時代と、平安京への遷都
桓武天皇は皇族ではありましたが、母親の地位が低かったため天皇になる可能性は低く官僚として働いていました。
しかし藤原氏と貴族の政争の影響により異母兄弟たちが廃嫡され、781年に天皇に即位することとなりました。
そのため桓武天皇は優れた実務能力を持っており、稀に見る天皇親政を行い政治手腕を発揮しました。
784年、桓武天皇は都を平城京から長岡に遷都します。
これは平城京の交通の便が悪いのを解消するのと、政治に口出ししてくる貴族や宗教勢力から距離を置く目的がありました。
しかし都を造営している最中で、遷都の責任者・藤原種継が暗殺される事件が起こります。
これは遷都に不満を持っていた大伴氏の勢力による反抗で、犯人は処刑されました。
更に桓武天皇の弟・早良親王が大伴氏と通じていた疑いにより、淡路島に島流しにされることになりました。
早良親王は身の潔白を訴えましたが聞き入れられず、断食によって抗議し護送途中で死んでしまいます。
それからほどなくして、桓武天皇の妃や母が死に、都では洪水が起こり疫病が広まるなど、不幸が立て続けに起きました。
「これは無念のまま死んだ早良秦王の祟りではないか」とまことしやかに囁かれ、長岡京に遷都してから10年ほどで遷都することになりました。
そうして造営されたのが平安京です。
この平安京への遷都を以って奈良時代は終わり、400年続く平安時代の幕が開けます。
農地改革と公地公民の崩壊の始まり
三世一身の法
この頃は人口が増えて割り当てる口分田が不足したため、農民が開墾したらそれから三世代に渡って農地の私有を認める「三世一身の法」を制定しました。
しかし期限付きの私有は開墾する動機になりにくく、また期限が近づいた農地は手入れを放棄して結局荒れ地になるため、制度として問題あり20年ほどで廃止されました。
法墾田永年私財法
三世一身の法に変わって制定されたのが「墾田永年私財法」です。
この頃は聖武天皇が在位しており、仏教の力で国を治める鎮護国家を目指していました。
国分寺や大仏作る資金を捻出するため、地方の豪族や寺社に譲歩する形で新たに開墾した土地の私有を永久に認める「墾田永遠私財法」を定めます。
これと引き換えに寺や仏像の建造を手伝わせることを目的にしていましたが、地方勢力の私有地を認めるこの制度は公地公民制を崩壊させる第一歩となります。
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飛鳥時代は592~710年まで続く時代で、都が奈良県の明日香村にあったことに由来しています。
中国(隋・唐)の進んだ文化を取り入れ、国としての体裁を整えて中央集権化を進めた時代です。
飛鳥時代の主な出来事
朝鮮半島の勢力喪失
倭国は朝鮮半島南部に進出、百済と新羅を占領して属国にして高句麗まで攻め上がりますが、強国の高句麗に押されてジワジワと後退し影響力を失います。
伽耶国も百済と新羅に切り取られ始め、倭国は挽回のため新たに派兵しようとします。
しかし527年、新羅と結んでいた豪族・磐井による「磐井の乱」によって派兵は阻まれ、磐井の鎮圧に1年半の時間を要します。
そうしている間に朝鮮半島の影響力を失い、朝鮮半島から全面撤退することとなりました。伽耶国はその後562年に新羅に滅ぼされます。
派兵に失敗して散々な目にあった倭国ですが、この頃に百済を通じて大陸の進んだ文化を輸入しています。
漢字、儒教、仏教などはこの頃に伝来したと考えられています。
仏教の伝来と崇仏論争
6世紀中ごろ、大陸から伝来した仏教を倭国でどのように扱うかで揉めます。
渡来人と関わりが深かった蘇我氏は仏教を支持、対して神道に携わっていた物部氏・中臣氏は神道を支持し仏教を否定していました。
これを崇仏論争と言います。
蘇我氏と物部氏の対立は代替わりした後も続き、皇位継承問題もあって対立が激化しました。
そして587年、蘇我馬子を中心とした豪族や皇族たちが物部守屋を攻め滅ぼして決着します。
それから日本では仏教が盛んになっていきます。
馬子は自分を支持していた崇峻天皇を即位させ、朝廷への影響力を広げていきます。
しかし崇峻天皇は蘇我氏の勢力拡大を快く思わず馬子と対立し、やがて馬子に暗殺されてしまいます。
崇峻天皇は臣下に殺された唯一の天皇、推古天皇は日本初の女性天皇です
592年に馬子は姪を推古天皇として即位させます。
推古天皇は蘇我氏を抑えるため、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政にします。
厩戸皇子は天皇と蘇我氏の両者のバランスを取りながら、その才覚を発揮します。
遣隋使の派遣
中国大陸では戦乱が終結して589年に隋が中国を統一しました。
超大国の誕生による国際情勢の変化に対応するため、倭国は600年に遣隋使を派遣します。
第一回の遣隋使は中国側(隋書倭国伝)にのみ記述が残っています。
詳細は不明ですが、倭国の体制が時代遅れなので改めるよう言われたようです。
それから厩戸皇子は国家の体制を整えます。
603年には豪族の地位を冠の色で分かるようにした冠位十二階を、604年には国民の心構えと国のあるべき姿を示した十七条憲法を制定します。
十七条の憲法の多くは元ネタが儒教にあり、冠位十二階も中国古典に影響を受けています。
国家の体制を整えた厩戸皇子は、607年に小野妹子らを遣隋使として派遣しました。
隋の皇帝・煬帝と会見し、以下の文章から始まる国書を渡します。
[memo title=”国書”]
日いずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。
[/memo]
これを見た煬帝は激怒しました。
怒った理由は倭国が超大国である隋と対等の立場で接しようとしたためと考えられています。
隋は皇帝を頂点として周辺諸国の支配者と君臣関係を結んでその地の統治を認めるという「冊封体制」を築いていました。
そこにいきなり後進国がやってきて対等に接してきたら、まあ空気読めよという話になりますよね。
しかし遣隋使は受け入れられ、608年には隋から裴世清が派遣されて交流が始まります。
これは隋が高句麗と戦争しており倭国との関係を拗らせたくなかったためと考えられています。
厩戸皇子はその国際情勢を理解した上で無礼な書を持たせたのではないかとも言われていますね。
遣隋使は五度派遣され、隋の進んだ文化を倭国へ取り入れました。
そんな隋は公共事業や高句麗との戦いで国民に負担を強いた事で反感を買い、やがて大規模な反乱に発展して618年に滅亡、代わって唐が興りました。
倭国は630年には遣隋使に代わって遣唐使を派遣するようになり、引き続き大陸の進んだ政治や文化を取り入れる動きは続きます。
倭国は唐王朝に倣って、中央集権の律令国家を目指していきます。
乙巳の変
朝廷の中心人物が相次いで亡くなります。
622年に厩戸皇子、626年に蘇我馬子、628年に推古天皇が没します。
朝廷の中心は厩戸皇子の子・山背大兄王と、蘇我馬子の子・蝦夷と孫・入鹿に代替わりします。
順当に行けば推古天皇の次の天皇は山背大兄王でしたが、山背大兄王と対立していた蝦夷は舒明天皇を即位させます。
そして蘇我氏は643年に山背大兄王を襲って滅ぼしてしまいます。
朝廷は蘇我氏が専横するようになり、天皇ですら表立っての反抗はできませんでした。
そんな蘇我氏を打倒すべく中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後に藤原姓に改姓)らが立ち上がります。
645年にクーデターにより蘇我入鹿を暗殺、その父・蝦夷を自殺に追い込んで蘇我氏の中心は滅亡します。
これが乙巳の変です。
大化の改新
乙巳の変の後、皇極天皇が退位して弟・孝徳天皇が即位します。
日本初の元号である「大化」を定めて645年を大化1年とし、その翌年に改心の詔を出します。
改心の詔は中国(唐)の律令制を参考にした「全ての土地と人民は天皇に帰属する」という公地公民制を目指したものです。
豪族の私有地や私有民の廃止、戸籍を作って農民に土地を割り当て収穫物を治めさせる班田収授法や、租庸調の税制などが定められました。
この改心の詔による政治改革を大化の改新と言います。
白江村の戦い
660年、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼします。
百済の王子は倭国に救援を求め、それを受けた倭国は662年に5万の兵を率いて朝鮮半島へと向かいます。
倭国軍は斉明天皇が自ら兵を率い、皇太子の中大兄皇子と共に行軍していました。
しかし福岡に差し掛かったところで斉明天皇は崩御してしまい、天皇不在のまま朝鮮半島へと渡ります。
そして663年に白村江にて、倭国・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍の戦いが始まります。
しかし船や武器の技術水準も、兵隊の練度も唐・新羅連合軍には及ばず、倭国は手酷い敗北を喫して逃げ帰りました。
逃げ帰った中大兄皇子は唐・新羅が攻めてきた時のために、九州に国境警備として防人を置く、筑紫に水城を築く、都を内陸の近江・大津宮に遷都するなどの対策を取りました。
日本が受けた衝撃と焦りがよく分かりますね。
しかし当の唐と新羅は結局攻めてはきませんでした。
日本を破った勢いで高句麗を滅ぼすも、その後は仲違いしてそれどころではなかったのです。
最終的に新羅が朝鮮半島を統一し、唐が追い出されます。
壬申の乱
668年に中大兄皇子が天智天皇として即位するも、3年ほどで病気になってしまいます。
元々次の天皇は弟・大海人皇子がなるはずでしたが、天智天皇は長子・大友皇子を後継者として指名しました。
大海人は身の危険を感じ、出家すると言って大津宮から離れて兵を集めます。
やがて天智天皇が没すると大海人皇子は東国の豪族の支持を集めて挙兵して都を目指しました。
大友皇子は西国を纏めて対抗しようとするも、朝鮮出兵の疲弊もあって足並みが揃いませんでした。
戦いは大海人皇子の勝利に終わって大友皇子は自殺します。
673年に大海人皇子は都を飛鳥浄御原に遷都し、天武天皇として即位します。
大宝律令
天武天皇は公地公民を進めるべく、飛鳥浄御原令を編纂します。
天皇を中心とした統治体制を構築すべく、法を整え律令国家としての体制を整えました。
その一環で皇族の地位向上と豪族の序列の再編のため、八色の姓を施行します。
また国号を倭から日本へと変更し、従来の大王の呼称を天皇に統一します。
天武天皇は日本の国家としての基礎を築いた人物なんですね。
他にも政治の中心とする都・藤原京を造営を始めたり、日本最古の貨幣である富本銭を作ったりもしています。
藤原京は中国の長安を真似て作られましたが、この時期は遣唐使が停止されていたため中国の古典書物を参考にしました。
富本銭が流通して使われていたかは疑問視されており、流通した中で日本最古の貨幣は和同開珎とされています。
686年に天武天皇が崩御して妻が持統天皇として即位、天武天皇の政策を引継ぎます。
飛鳥浄御原令を施行し、戸籍を完成させて農民に口分田を割り当てました。
そして694年に藤原京が完成すると遷都し、孫の文武天皇に皇位を譲って自身は上皇となりました。
701年には飛鳥浄御原令に代わって大宝律令が制定され、翌年施行されます。
刑法である「律」と民法である「令」が整備されたもので、日本は律令国家としての体裁が整います。
行政機関も刷新して二官八省とし、また日本を五畿七道に分けその下に66の国、更に郡、里と分けて朝廷の命令が日本全国に伝わるように整備しました。
また税制に租庸調に加えて雑徭と兵役が追加されたのですが、これらの負担が重すぎて逃げ出す人が続出します。
これによって律令制が崩壊してしまうのですが、それはまだ先の話でしょうか。
702年、白村江の戦い以来停止していた遣唐使が再開されます。
最新の中国事情が分かると共に、中国古典を参考に作っていた藤原京が時代遅れの様式をしていたことが分かります。
そうして中国の最新様式に合わせた平城京の造営が始まります。
710年に言明天皇が即位し、平城京が完成して遷都すると飛鳥時代は終わり、奈良時代が始まります。
日本最古の史書「古事記」と「日本書記」の編纂
飛鳥時代の後期、天武天皇の命令により日本で最初の歴史となる「古事記」と「日本書記」の編纂が始まりました。
完成するのは奈良時代に入ってからですが、これらはほとんど同時期に成立しました。
この二冊はどちらも史書(歴史書)であり内容は似ていますが、編纂された目的が違います。
古事記
古事記は天皇家の支配の正統性を知らしめ歴史を記すための、国内向けの歴史書として編纂されました。
712年に成立した日本最古の書物です。
日本語の音に漢字を当てた和化漢文にて、物語調で書かれています。
日本書記
日本書記は日本が対外的に国として認められるため、国外向けの歴史書として編纂されました。
720年に成立した日本で二番目に古い書物です。
漢文にて、編年体(時系列)で書かれています。
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古墳時代は250~600年末頃、ヤマト政権によって日本統一が進められたと考えられている時代です。
近畿を中心に大量の古墳(墓)が見つかっていることから古墳時代と呼ばれています。
この頃の日本で何があったのか詳しいことは分かっていません。
日本各地に残る痕跡や、大陸にある記録から推察されています。
ヤマト政権による統治
この時代は近畿地方を中心に沢山の古墳が建てられており、その数は16万基にも及びます。
形にも前方後円墳、上円下方墳、八角形などいくつか種類があります。
画一的な古墳が各地に作られていること、また共通点の多い副葬品が発掘されていることから、この頃の日本は単一勢力が広い範囲を統一していた考えられています。
この勢力をヤマト政権と言います。
ヤマト政権は邪馬台国の後身ではないかとも考えられていますが、よく分かっていません。
ヤマト政権は盟主の「大王(おおきみ)」を筆頭に各地の豪族が集まった連合政権です。
朝鮮半島に攻め込んだ記録が残っており、海外に派兵する余裕があったことから国内情勢は安定していたと考えられています。
大陸との関わり
中国大陸は晋が統一するも、後に動乱の時代へ
中国が魏、呉、蜀に分かれて争っていた三国時代、魏が大陸を統一しつつありました。
しかし魏は重臣のクーデターによりひっくり返って晋王朝が始まり、晋は残りの勢力を滅ぼして3世紀末頃に中国を統一しました。
魏には邪馬台国の卑弥呼が、晋には倭国の女王が使節を送っていた記録が残っています。
晋に使節を送った勢力と人物は定かではありませんが、邪馬台国の卑弥呼の2代後の女王・壱予ではないかと考えられています。
晋が大陸を統一した後も大陸の情勢は安定せず、内乱によって50年ほどで晋は終焉を迎えます。
大陸は群雄割拠状態となり、その後300年もの間統一王朝は現れませんでした。
絶対的な権勢を誇っていた中国の影響力が弱まったことで、東アジアでは独立の気運が高まりました。
そんな中国の南北朝時代に、南側で勢力を誇っていた宋があります。
宋には倭国の五王(讃、珍、済、興、武)が1世紀に渡って代々朝貢した記録が残っており、武は478年に安東大将軍に任じられています。
朝鮮半島と倭国
4世紀には朝鮮半島で高句麗・新羅・百済の三国が勢力を強め互いに争っていました。
そんな中で倭国は半島南部の地域・伽耶との関係を深め、朝鮮半島へ進出しようとしていました。
(鉄資源が目的とも言われています)
この頃の朝鮮半島は高句麗が勢力を誇り、百済と新羅はその属国のような扱いでした。
そこに391年に倭国がやってくると、百済と新羅を倒して属国としてしまいます。
倭国は朝鮮半島においてそれなりに権勢を誇っていたようです。
またこの時期に百済を通して、仏教、文字、土木などの優れた文化や技術を輸入しています。
大陸の史書の中の日本
晋書
266年、倭国の女王が晋へ使節を派遣した記憶が残っています。
この女王は邪馬台国の壱与ではないかと考えられています。
広開土王の碑
晋書から以降100年ほど、中国の史書には日本に関する記述がありません。
その間の日本は誰が治めてどうなっていたのか謎が多いですが、朝鮮半島に渡って戦っていた痕跡が残っています。
高句麗の王・好太王(広開土王)の業績を称えた「広開土王の碑」に、4世紀頃に日本と高句麗が戦ったことが記録されています。
「宋書」倭国伝
宋と諸外国の外交記録が書かれた書物です。
倭国伝には倭とのやり取りが記され、倭の五王から朝貢されたこと、倭王武が安東大将軍に冊封されたことなどが書かれています。
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弥生時代は紀元前2~3世紀~(紀元後)3世紀頃の時代を指します
「弥生」という名前はこの時代に使っていた丸く機能的な土器が東京の弥生町で発見されたことにちなんでいます。
弥生時代は本格的に農業が始まった時代でもあり、安定した食料生産により人口が大きく増加しました。
そして本格的な戦争が始まった時代でもあります。
渡来人による文化の伝来
縄文時代後期~弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から「渡来人」の集団がやってきました。
大陸東北部の状勢が不安定で、日本に避難してきたと考えられています。
渡来人は主に北九州沿岸に定着し、それにより大陸の優れた技術が日本に伝わります。
特に「稲作」と「金属器」は日本に多大な影響をもたらしました。
稲作は百年ほどかけて日本全土に広がりました。
しかし北海道や東北地方などの寒い地域では稲がうまく育たず、この時代にはあまり普及しなかったようです。
東北は米の一大産地であるイメージが強いですが、本格的な稲作が始まったのは米の品種改良が行われた明治以降です。
稲作の与えた影響
渡来人は様々な技術を日本に伝えましたが、特に稲作が与えた影響は大きいです。
それまでは日々の暮らしの中でエネルギーの多くを食料の確保に向ける必要があり、他の事をする余裕がほとんどありませんでした。
しかし稲作により食料を安定生産・貯蔵できるようになり、今まで食料の確保に向けていたエネルギーを他に向けられるようになったのです。
また従来は各々が狩りや漁を個人で行っていたのに対し、農業は集団での作業となります。
食料の貯蔵量や農業の役割分担は貧富の差となり、村に身分の上下や有力者が生まれました。
また稲作と共に弥生土器も広がっていきました。
弥生土器は中に均等に熱が伝わるため特に米の煮炊きに便利な、縄文土器よりも機能的な土器です。
鉄と青銅器
渡来人は鉄と青銅をもたらしました。
人類史的には鉄器よりも青銅器の方が先に登場しましたが、日本にはそれらがほぼ同時に伝来しました。
青銅は鉄と比べると柔らかいので、主に祭器として使われました。
世界的には青銅器が実用的に使われた時代もありましたが、鉄器と一緒に伝来した日本ではあまり使われませんでした。
鉄器は固いので農具や武器などの実用的なものに使われました。
ただ日本では鉄があまり産出しなかったので、鉄器が広く普及するのに時間がかかったようです。
戦争の始まり
農業による食料の安定供給は人口の増加を促し、農業用地や水が不足します。
やがて人々は集落に足りないリソースの解消を他の集落から奪おうとするようになり、時代は共同体同士の戦争へと発展していきます。
平和で牧歌的だった縄文時代は終わり、戦争の時代へと入っていきます。
集落は互いに争って戦争し、勝者はより強大な集落となります。
やがて集落は「クニ」へと発展し、クニの指導者は「王」として君臨します。
紀元前100年頃の日本は100余国に分かれ、盛んに中国へ朝貢していた記述が残っています。
戦争の痕跡
この時代の集落は丘や山の上に作られた高地性集落や、周囲を濠で囲んだ環濠集落などが見つかっています。
これは集落を外敵から守りやすいように作って戦争への備えをしていたということですね。
また発掘された弥生時代の遺体には、争いで死んだ痕が見られるものが多く発見されています。
これは縄文時代の遺体にはあまりない特徴であることから、本格的な戦争は弥生時代から始まったと考えられています。
中国の史書から見る日本
弥生時代の日本に書物は存在しませんが、大陸に日本のことを記した史書が存在します。
「漢書」地理志
紀元前100年頃、日本に住んでいた人「倭人」たちは百国以上に分立していました。
それら国々の一部は楽浪郡(漢の武帝が朝鮮半島に設置した行政府)にたびたび使節を送っていました。
「後漢書」東夷伝
57年、倭の奴国王が後漢の都・洛陽へ使節を派遣し、朝貢して属国と認められました。
その印として洪武帝より「漢倭奴国王」と掘られた金印を与えられています。
つまり「漢の名代として倭を治める奴国の王」として漢から認められたという訳です。
その後も107年頃に倭国王が奴隷を献上しに行った記録が残っています。
2世紀初頭には倭国は連合国家となっていたようですが、あまり長続きはしなかったようです。
2世紀の後半になると大規模な内戦である「倭国大乱」の時代を迎えます。
「魏志」倭人伝
239年、魏に邪馬台国の女王・卑弥呼が送った使節が朝貢しにやってきました。
使節が奴隷や織物を献上したのと引き換えに、魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印などを授けました。
邪馬台国は30の国を従えた連合国家で、元々は男王が治めていました。
しかし国が荒れたため、女王・卑弥呼を立てたようです。
卑弥呼は巫女として神の声を伝える形で民衆を導いていました。
卑弥呼は248年に没しその後は男王が立てられましたが、男では上手く国を治められず、女王壱与を立ててようやく国が安定したようです。
魏志倭人伝には邪馬台国から魏までの行程が書かれていますが、記述が曖昧で邪馬台国の正確な位置は謎のままになっています。
地理的に中国に近い北九州説と、古代日本の中心地である奈良説が有力説とされ、他にもいくつかの説があります。
初代天皇「神武天皇」が誕生したとされる時代
日本書紀によれば日本の初代天皇とされる神武天皇は縄文時代後期~弥生時代初期頃の人物と考えられています。
九州の有力者だった神武天皇は45歳のころに東夷を決意して進軍、近畿を制圧して奈良県の中部辺りに都を構えたそうです。
そうして紀元前660年に初代天皇「神武天皇」として即位したとされています。
ただ日本書紀の真偽は疑問視されているものが多いです。
特に紀元前660年の話なんて日本書紀が編纂された1300年以上前の出来事で、まあ普通に考えれば信用が置けるものではありません。
そんな事情もあって26代までの天皇は本当に実在したのか疑問視されています。
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縄文時代はおおよそ紀元前14000年から紀元前2~3世紀頃までの時代を指します。
1万年以上もの長い期間なので、前期、中期、後期、晩期に分けられることもあります。
この頃の人々は「縄文土器」と呼ばれる縄で模様を付けた土器を使っており、そこから縄文時代と名付けられました。
縄文時代は世界史で言うところの新石器時代に該当します。
縄文人の生活
氷河期が終わって気候が温暖になり、植物相や動物相も大きく変化しました。
それまでは大型動物を追いながらの狩猟生活でしたが、大型動物が絶滅したことにより人類の生活様式も変わります。
縄文時代には縄文土器が誕生し、食べ物の煮炊きや保存ができるようになりました。
今まで食べられなかった物が食べられるようになり、食糧事情は改善して定住生活を営めるようになります。
数十人が集まって集落を作り、地下を掘って作る竪穴式住居に住むようになります。
住居の近くには貝塚と呼ばれるゴミ捨て場を作り、食べ残しの残飯や破損した土器を捨てていた他、人やペットの埋葬もしていました。
貝塚と呼ばれるのは大量の貝殻が発掘されるためです。
貝殻ばかり出てくるのは分解されにくいからで、貝殻ばかり捨てていた訳ではありません。
縄文人は狩猟、漁業、木の実の採集、簡単な植物の栽培などをして暮らすようになりました。
獲物が大きく強い大型動物から小さく早い中型以下の動物に変わり、それを仕留めるために弓矢が使われるようになります。
その食生活は意外に豊かで、木の実と肉を混ぜてハンバーグにして食べていた、果実酒を作っていたなんて話もあります。
基本的に食べ物を取っては食べの原始的な生活で、食料の長期保存や自己生産(農業)の手法が確立されたのは縄文時代の終わり頃です。
みんながその日暮らしであり、貧富の差はほとんどなかったと考えられています。
縄文時代の宗教
縄文時代になると、宗教的な痕跡も見受けられるようになります。
屈葬
死者は手足を折り曲げて屈むような姿勢で埋葬されていました。
そのように埋葬していた理由は諸説ありますが、胎児の姿勢を取らせて再誕を願っていたとか、死者が迷い出てくることがないようしていたのではないかとか言われています。
土偶や石棒
縄文時代の遺跡からは動物や人を模して造られたと考えられる「土偶」や、男根を模して作ったと思われる「石棒」などが出土しています。
縄文人に何らかの宗教的信仰があった事が伺えますね。
抜歯
出土した成人縄文人の骨に抜歯されているものが多くあることから、縄文人には成人すると抜歯する習慣があったと考えられています。
理由は諸説あり成人の通過儀礼として行われたとか、人の役割を示すために行われたとか考えられています。
成人して抜歯する風習は割と一般的なもので、現代においてもアフリカに抜歯の風習がある部族もあります。
歯が無くなれば生存に不利になりますが、このような風習が世界的に見られるのはなぜなんでしょうね?
縄文時代の遺跡
三内丸山遺跡
縄文時代の代表的な遺跡と言えば青森県の三内丸山遺跡です。
縄文前期~中期頃の大規模な集落跡で、ここに数百人もの縄文人が800~1000年以上に渡って暮らしていたと考えられています。
竪穴の住居、埋葬した墓、ゴミ捨て場などが整然と配置され、縄文土器、石器、土偶なども沢山出土しています。
また集落から遠く離れた地域原産のヒスイや黒曜石なも出土していることから、離れた集落と交易してそれらを得ていたと考えられています。
大いに栄えた三内丸山集落ですが、縄文中期には人がいなくなったようです。
その理由はよく分かっていませんが、流行り病や天変地異でも起きたのでしょうか。
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旧石器時代は紀元前200万年前頃~紀元前14000年前頃のおよそ200万年を指します。
その頃の人類は石を加工しを打ち付けて良い感じの形にした「打製石器」を使っていました。
この打製石器(旧石器)を主に使っていた時代だから旧石器時代と言う訳です。
日本列島に人類が入植したのは旧石器時代の終わり頃と考えられており、日本の人類史はおよそ紀元前3万6000年頃から始まったとされています。
日本列島の成立
旧石器時代のはじめ頃、世界は氷河期の真っただ中であり地球の平均気温は現在よりも5~10℃ほど低い環境でした。
現在と比べると地球の水分は雪や氷として陸上に多く留まっていたため、、海面は今よりも低くありました。
この頃の日本は列島ではなく北海道から九州まで陸地で繋がっており、更にユーラシア大陸とも地続きでした。
大陸からナウマンゾウやオオツノジカなどが日本へ移動してきて、それを追いかけて人類も日本列島へ移り住んできたと考えられています。
旧石器時代の終わり頃になると氷河期が終わって気温が上昇し、陸上の雪と氷河が溶けて海に流れ込み海面が上昇しました。
海面の上昇により日本はユーラシア大陸から切り離され、地続きだった日本も海に隔てられ列島となりました。
ここから日本の歴史は始まったと言えます。
旧石器時代の暮らし
人々は狩りや漁によって生活の糧を手に入れていました。
巨大な獲物を追って移動しながらの狩猟生活で、洞窟などの横穴式住居を仮住まいのねぐらにして暮らしました。
数人から十数人の集団で狩りを行い、ナウマンゾウ、シカ、イノシシ、ウシなどの大型の動物を主な獲物としていました。
打製石器は狩りに使う武器や解体するためのナイフとして使われていました。
打製石器は石をそのまま使ったり、木にはめ込んで使ったりされていました。
石斧、ナイフ、尖頭器など用途に応じて様々な打製石器が作られています。
旧石器時代の痕跡
日本各地に旧石器時代の痕跡を残す遺跡が発見されています。
沢山ありますが特に有名なのは岩宿遺跡と砂原遺跡ですね。
日本にも旧石器時代があったと分かったのは、1946年に群馬県の岩宿遺跡によってです。
それまでは人類の入植は縄文時代以降と考えられていたのですが、その定説を覆したのが岩宿遺跡です。
ローム層と呼ばれる粘土質の土壌の中から打製石器が見つかり、縄文時代の石器はこのローム層よりも上から発掘されていました。
だからこれはもっと昔のものだろうと調査した結果、少なくとも25000年以上前の遺跡だと分かったのです。
縄文時代の始まりより遥かに古い遺跡であるため、旧石器時代の日本の遺跡だろうと考えられたのですね。
その後も日本各地で様々な旧石器時代の遺跡が発見されました。
その中でも最古のものが2009年に出土された島根県の砂原遺跡で、およそ12万年前の遺跡と考えられています。
日本への入植は地理的に北から始まったと思われるので、もしかしたらもっと古い遺跡が北の方で見つかるかもしれません。
日本の人類史が更に深まるかは今後に期待ですね。
ちなみに日本で見つかっている最古の人骨は、沖縄県石垣島で発掘された大よそ2万7千年前頃のものです。
遺跡に比べると大分新しいので、今後の発見に期待ですね。
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日本史が学校教育に使う教科書レベルで内容が変わったことの覚書です。
仁徳天皇陵→大仙陵古墳に名称変更
大仙陵古墳は大阪府堺市にある世界最大級の前方後円墳です。
かつては日本の16代天皇である仁徳天皇が埋葬されている古墳とされ「仁徳天皇陵」と呼ばれていました。
しかし確固たる根拠があった訳ではなく、また宮内庁の管轄にあって調査・研究の許可が下りません。
現在ある情報では本当に仁徳天皇の墓かどうか分からず、大仙陵古墳と改名されました。
今後調査が進めば仁徳天皇陵に呼称が戻る可能性もあります。
大和朝廷→ヤマト政権(ヤマト王権)に名称変更
ヤマト王権は4~6世紀頃に現在の奈良県周辺にあった、当時の日本の中心勢力を指す言葉です。
かつて使われていた「朝廷」という呼称は官僚制の伴った政府・政権を指す言葉であり、この時代の政府にはまだそのような機能は備わっていなかったと考えられています。
そのため朝廷から「政権」に名称が変更されました。
聖徳太子→厩戸皇子に名称変更
厩戸皇子は飛鳥時代の政治中枢に近い場所にいた皇族です。
存命中は厩戸皇子と呼ばれており、没後に聖徳太子と尊号が付けられました。
つまりは存命中の名前と没後の尊号のどちらで呼ぶかの問題なのですが、現在は存命中の名である厩戸皇子で呼ばれています。
日本最古の通貨が和同開珎から富本銭に変更
富本銭と和同開珎はともに日本で鋳造されていた通貨です。
日本最古の貨幣はかつては708年に鋳造された和同開珎とされていましたが、683年に鋳造された富本銭の発見により塗り替わりました。
しかし富本銭が実際に流通して使われたかは不明な部分が多く、ある程度流通した最古の通貨は和同開珎とされています。
鎌倉幕府の成立年の変更および補足の追加
鎌倉幕府とは武家中心の政治を行った鎌倉時代に将軍が政務を執った場所・機能・勢力のことです。
ただし当時そう呼ばれていた訳ではなく、後年になって便宜上そう呼んでいるだけです。
「良い国作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせで有名な1192年に成立したとされていた鎌倉幕府ですが、それ以前から鎌倉幕府と呼べる勢力は存在しました。
鎌倉幕府の成立は大よそ3段階に分かれ、1180年に源頼朝が軍事政権として関東の支配を確立、1185年に諸国に守護・地頭を設置、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されています。なので現在は1180~1192年の間に段階的に成立したのが鎌倉幕府であるとされています。
慈照寺の通称が「銀閣寺」である理由が変更
慈照寺は通称「銀閣寺」と呼ばれています。
金閣寺と対になっているような名称ですが、金箔が張られている金閣寺と違って銀閣寺には銀が一切使われていません。
名前の由来は銀箔を張る予定があったものの財政の問題で実現しなかったとか、金閣寺に倣って作られたからとか考えられていました。
しかし現在はそれらは勘違いであり、その勘違いから銀閣寺という通称が付けられたと考えられています。
ただの通称なので銀閣寺と呼ぶことが間違いという訳ではなく、通称が変わる予定もありません。
今後も銀閣寺と呼ばれ続けることでしょう。
士農工商は職分
昔は士農工商は職分であると同時に身分制度と考えられていましたが、現在はただの職分の呼称とされています。
職分は主に世襲制で現代に比べると変えるのは大変でしたが、完全に固定という訳でもなかったようです。
実際の身分制度は士農工商の職分とは関係ありません。
まず武士が上で、その下に農工商を職とする村民や町民を並列し、そして最下層に「えた」「ひにん」が置かれていました。
関連して明治の身分制度撤廃の標語である「四民平等」も教科書からなくなりました。
士農工商の捉え方が変わったことで、四民平等の説明として言われていた「士農工商という身分制度からの脱却」の意味が通らなくなったためです。
江戸時代の「鎖国政策」を「幕府の対外政策」に変更
江戸時代の日本は外国と一切の交易をしない鎖国政策を行っていたと考えられていました。
しかし現実的にはオランダや中国との交易は続けられており、鎖国にそぐわない状況だったと考えられるようになりました。
踏絵→絵踏に変更
隠れキリシタンか否かの調査方法としてキリストや聖母マリアを踏ませていた行為の呼称が「踏絵(ふみえ)」から「絵踏(えぶみ)」に変わりました。
絵踏は踏絵を踏ませる行為、踏絵は絵踏で踏ませる物を指す言葉です。
つまり踏絵を絵踏させていたのであり、行為を表す言葉として適切なのは「絵踏」という訳です。
江戸時代の文化が三区分→四区分
従来は江戸時代の文化を以下の三区分に分けていました。
現在は化政文化としてまとめられていたものを「宝暦・天明期の文化」と「化政文化」の二つに分け、以下の四区分となっています。
- 寛永期の文化
- 元禄文化
- 宝暦・天明期の文化
- 化政文化
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人類の誕生
人類とサルを分類する基準に「直立二足歩行をしているか否か」が挙げられます。
直立二足歩行ならヒト、四足歩行ならサルという考え方です。
サルは四足歩行をしていましたが、樹上生活に適応するうちに2本の前足で樹を掴んで生活するようになります。
前足を器用に使える個体が有利な樹上生活を続けるうちに、前足は「手」として発達していきました。
やがて地上を歩く際にも、前足は補助的に使うに留まるようになります。
更に年月が経ち、四本歩行のサルは直立二足歩行のヒトへと進化したのです。
二足歩行には「脳が大きくなっても頭を支えられる」「2本の手を自由に使える」メリットがあります。
アフリカで誕生した人類は長い時間をかけて進化しながら世界中に勢力を広げ、高い知能と器用な手先によって作られた優れた道具によって世界中で繁栄するまでになりました。
人類の誕生年代
ヒトとは霊長類ヒト科ヒト属に属する動物のことを指します。
現代まで生き残っているヒト属は現代人であるホモサピエンスのみですが、かつて進化と淘汰の過程で色々なヒト族が存在していました。
最初の人類であり直立したサルのような見た目の「猿人」、サルとヒトの中間ぐらいの「原人」、現人類を含む「新人」に分けて考えられています。
以前は原人と新人の間に「旧人」という区分もありましたが、現在では新人に含まれるようになりました。
旧石器時代の始まり頃の人類は猿人のみでした。
しかし200万年もの旧石器時代の間に人類は猿人から原人へ、猿人から新人へと進化していきました。
そして旧石器時代が終わる頃には猿人、原人、新人の多くは滅亡し、我々ホモサピエンスのみが生き残ったのです。
猿人
猿人は約700万年前頃~約130万年前頃にいたと考えられている初期の人類です。
約580万年前に誕生した「アルディピテクス」や約400万年前に誕生した「アウストラロピテクス」などが有名です。
猿人の見た目はほとんどチンパンジーですが、尾がなく直立二足歩行している点がサルとの大きな違いです。
脳の大きさは現生人類の40%程度で、石を叩いて作った原始的な石器(ほとんどただの石)を利用していました。
原人
原人は約180万~15万年前頃にアフリカ~ユーラシア大陸に生息していた人類です。
有名なのはジャワ原人や北京原人がカテゴライズされている「ホモ・エレクトス」でしょうか。
人と猿の中間ぐらいの見た目をしており、脳の大きさは現生人類の75%と猿人と比べて大分大きくなっています。
石を磨いて作った磨製石器を使ったり、火を起こしたりもしていたようです。
旧人
40万~2万年前頃に生息していた「ネアンデルタール人」や、この頃の我々の我々の祖先「古代型サピエンス」を差す言葉です。
現在はこの区分は新人の中に含まれますが、使い勝手が良いので使わせてもらいます。
我々の祖先よりもネアンデルタール人の方が早く大陸に広がりましたが、我々との生存競争に敗れて絶滅してしまいました。
しかし若干ながらネアンデルタール人のDNAが現生人類の中に受け継がれていることから、ネアンデルタール人ともある程度共存していたと考えられています。
それを考えると現生人類はネアンデルタール人との混血であり、ネアンデルタール人の系譜は途絶えていないのかもしれません。
新人(ホモサピエンス)
新人は30万年前頃~現代まで生息している「クロマニョン人」「上洞人」などに代表される現生人類を指す言葉です。
新人は身体能力こそ大したことはありませんが、その高度な知能で道具を作ったり環境を自分に都合の良いように作り替える能力を持ちます。
特に農業が広まってからは爆発的に数が増え、世界中で繁栄するに至りました。
人類の移動
アフリカ大陸で誕生した人類は、数を増やしながら少しずつ世界中に広がりました。
5~6万年前にアフリカ大陸からユーラシア大陸へと進出し、3万年前にはユーラシア大陸の東西端まで広がります。
また当時は氷河期で海水面が低く、地続きだった東南アジア諸島やオーストラリア大陸まで人類が到達したのもこの頃です。
そして2万年前頃にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へと進出、8000年前頃にはアメリカ大陸の南端まで到達しました。
ちなみに太平洋の島々へと進出したのは比較的最近です。
西の方に位置する島々に辿り着いたのは2~3000年前、東寄りのイースター島に着いたのは1400年前と考えられています。
大陸から遠く離れた島へと辿り着くのは、アフリカからヨーロッパ・アジアを横断してベーリング海峡を渡ってアメリカ南端まで歩くよりも難しかったようですね。